葛洪が自主的に従軍し、功績を立てたとあったが、戦いに自己の選択で行くか行かないかを決められたのだろうか。

中国では、大乱期に徴兵ではなく募兵を行うことがよくみられます。『晋書』列伝の葛洪伝によると、「太安中、石冰乱を作す。呉興太守顧祕義軍都督と為り、周玘等と兵を起こして之を討つ。祕、洪に檄して将兵都尉と為し、冰の別率を攻め、之を破り、伏波将軍に遷る。冰平ぎ、洪功賞を論じず、徑に洛陽に至り、異書を捜し求め、以て其の学を広めむと欲す。洪、天下已に乱るるを見て、地を南土に避けむと欲し、乃ち広州刺史嵇含の軍事に参ず。含の遇害せるに及び、遂に南土に停まること多年、征鎮の檄命一ら就くところ無し。後に郷里に還り、礼辟せらるるも皆赴かず」とあります。すなわち、石冰の乱鎮圧に対する檄に応じ都尉として参戦、冰軍の別働隊を破り功績を上げるも論功行賞を辞退、その後八王の乱が深まるなか広州刺史の軍に参加するものの、刺史が殺害されたことで同地に多年に渉って留め置かれ、しかもその間檄に応じて戦闘に参加することはなく、後に郷里に還りすべての招聘を断ったということです。