実践的過去とは、徳川家康やビスマルクのように、「賢者は過去に学ぶ」ということと同義とみなしてよいですか。

いわゆる「偉人」や「英雄」における歴史の継承を語ろうとすると、その言説は容易に権力の側へ引き寄せられてしまいます。むしろ一般の人々が、日々を生きるためにどのような「歴史」の援用を行ってきたのかが、実践的過去の射程にある問題です。例えば、賢者などという特別な存在ではなくとも、父祖の経験に耳を傾け、その物語と自分を対比させながら、生きる道を決めてゆくというあり方などは、おそらくかなり普遍的な歴史活用の方法でしょう。そうした先人たちの経験は、無数の物語となって、社会のなかに蓄積されている。人々はそれにアクセスして参考にし、場合によっては少しずつ作りかえて活用し、また自らの経験をひとつの物語として社会へ還元している。そうした、人間ひとりひとりのレベルでの「活きた」歴史の活用について、非科学的だ、不正確だと非難するのではなく、社会を維持発展させるために意義あるものとして考えてゆこう、というわけです。