中世の修験道の山伏たちが修行をした神体山はごく一部の奥山で、人間の開発の手を免れていたということでしょうか? また、そういう山は村落周辺のはげ山との視覚的比較から、より神聖さが増していたということは考えられますか。

山伏の修行するような場所は、かなりの奥山です。平安期には、古記録に修験道の人々の話題が出て来ますが、彼らも鞍馬や熊野など、かなり奥地の峻嶮な場所を修行の舞台としています。それらは、水田化と柴草山化の波からは逃れる場所にあったと思われます。しかし中世以降、林業や狩猟採集などの山の産業も、次第に権力による収奪の対象になってゆきます。寺社の保有する奥山であっても、これを伐って材木や薪炭材にしようとする人々があり、両者の間で争論が生じることもしばしば見受けられました。鎮守の森も、現在に至るまで伐採の対象となり、林相・植生を変化させてきたことが科学的に証明されています。なお、樹木の多い山が神聖であるという認識は、古代・中世の人々にもあったようです。開発をしようとする庶民に対して、寺社側が「樹木は神仏の荘厳に必要」との論理で応対したことが、諸処の記録に出てきます。