経典というものについて、自分が思った以上に理解していなかったことに気づかされました。聖書のように、公的に編纂され、それひとつだけを絶対的に教典とするのではなく、さまざまな教典とその注釈書をもとに、仏教の教えは展開したという理解でよいでしょうか。

概ねよいと思います。これは、ブッダと呼ばれる覚者が、いわゆるシャカ=シッダルタに止まらないと理解されていったことに原因があります。概ね仏教の教えを語るのはシャカですが、その背景には無限に続く過去のなかで生命の救済をし続けてきたブッダがあり、彼らの活動や説いてきた教えがある。それがシャカの口を通して述べられて一連の物語をなし、その内容を理解するための論や注釈が生まれて、いくつもの学派をなしてゆきます。当初、シャカの教えは文章に記されなかったので、死後の弟子たちの何段階かにわたる会議を経て、経典が生み出されてゆきます。しかし仏教がインドから西域を経て中国へ伝わるなかで、それぞれの地域に則した教えが付加され、新たな経典として再構成されてゆく。また、もともとある教えについても、新しい解釈のもとで従来の考え方が修正され、それに沿った経典も、シャカが語ったもの、仏が語ったものとして生み出される。その繰り返しのなかで、巨大な仏教のうねりが生まれてゆくわけです。