指月の譬の解釈、とくに曇鸞の論がいまひとつ理解できません。この考えの変遷は仏教の本質に関わると思います。賛否が当然戦わされたと思いますが、その点はいかがでしょうか。それとも正統、賛否自体が仏教の本質ではない? / 曇鸞の考えは、釈迦のそれを否定していることにはならないのですか?
指月の譬自体は、喩えですので、解釈の仕方自体が大きな問題となることはなかったようです(もちろん、論理的に誤っているのではないか、といった議論は後世に至るまで交わされてきましたが)。仏教は経典の読みに対する再解釈によって発展してきたところがあるので、シャカの教えについても、「今までの理解が間違っていた、こう解釈するのが正しいのだ」と論じれば、シャカ自体を否定したことにはならないわけです。曇鸞の考え方は、当時勃興してきていた称名(念仏など)という実践を、従来の仏教の枠組みを用いてどう整合的に位置づけるかという点を重視していました。そこへ、道教の呪文の効能なども応用しながら、名/本質を区別すること自体が未覚者の限定的な認識であり、未分節である状態こそが正しい理解だと主張していったのです。フェルディナン・ド・ソシュール以来の現代言語学でも、言語はその意味作用によって現実を構築しているのであり、我々がみている世界は言語なしでは成り立たないとする説明に至っています。指し示す指がなければ、我々は月を認識できない。つまり、月と指とは即応しており、一体的に理解すべきものである。それゆえに、仏の名を唱えることによって、その仏が成就した誓願の効能を感受できるのだ、というわけです。