南詔においては、漢字・漢文の普及・習熟度は高かったのでしょうか。それとも、中国からやって来た人だけが使用していたのでしょうか。

史料がないので具体的なことは分かりませんが、古代日本と同じような情況であったろうと思います。漢人を登用し、彼らから文字も含めて法律、制度を学び、国家体制を整備してゆく。唐王朝とは政治的に決別した時期があったものの、彼らがチベットやインドの文字を使わなかったのは、まさに境界とはいえ、雲南地域も漢字・漢文文化圏に含まれていたためでしょう。唐との決別を記す「南詔徳化碑」、南詔国の成り立ちと仏教伝来を記す『南詔図伝』、そして剣川県の石鍾寺石窟の題記などがすべて漢字で書かれているのは、文字文化としては漢字文化が一般化しており、未来に渡ってその文字・言葉を用い続けるという認識が明確化していたことを意味しています。