生命を生み出す力ということで女性像が作られ、崇拝されたのは納得できるのですが、それですと女性中心に社会になりそうです。なぜ男性中心の社会が構築されたのでしょうか。

実は、女性の生命を生む力を信仰するということは、必ずしも女性の地位の高さを表すことにはならないのです。その意味で、平塚らいてうの「原始女性は太陽であった」という宣言は、幻想以外の何ものでもありません。世界中の女性/男性の表象をめぐる歴史、民族社会のありようをみていると、文明に価値の根本を置いて、そこから野生・自然を対立的なものとして捉えるという世界観が広く存在します。この二項対立的な枠組みのなかでは、文明/自然の双方に、例えば耕地/森林、都市/田舎、神/悪魔などが、ぞれぞれ善/悪のカテゴリーに当てはめられて理解されます。男/女という対立項も、まさにそのなかのひとつに当たるのです。女性の生命を生む力は、文明=男性にとって理解しがたいものとされ、自然の領域、野生の領域に疎外されてゆきます。よって女性を崇拝する社会には、実は男性優位の社会も極めて多いのです。