梁や南詔は、自王朝の正統性を仏教に求め、それを表現することに執心したようだが、それは統治にどの程度有効だったのか。それほど仏教に影響力があったのですか。

2回目の講義でもお話ししましたが、南詔吐蕃と唐にとって、西域や東南アジア、インドとの交易ルート上重要な位置にあります。7〜8世紀に南詔が国家として展開したとき、すでに唐には仏教文化が栄えていました。南詔は驃やインドとの関係から、最新の仏教文化を輸入し身に纏うことで、唐に対する文化的独自性(あるいは先進性)、唐の中華思想に対する相対的独立を獲得しようとしたものと思われます。梁については、六朝期に次第に発展してきた仏教文化が、国家的に開花した段階でした。前王朝までの集積を受け継ぎ、高僧伝、仏教類書、経録など、後の仏教研究の中核をなすような典籍が、国家の援助を受けて編纂されています。当時、梁が対立していた北朝北魏も、北涼仏教文化を吸収して国家仏教を開花させていました。北魏では、非漢民族=胡族である自らの皇帝としての正統性を、漢民族の宗教ではない仏教へ求めようとしたのでしょう。梁は北魏に対抗する意味も込めて仏教を信奉したのでしょうが、武帝の崇仏は度を超しており、自らを「三宝の奴」とまで言い放ちます(これはそのまま、日本の聖武天皇へ継承されてゆきます)。彼の仏教事業は国家財政をも圧迫、最終的に梁を滅亡へ追い込みますが、その隆盛は隋へ受け継がれ、同王朝は仏教を国教としてゆくのです。