2016-04-29から1日間の記事一覧

大理の仏教における観音信仰は、他の東アジアのそれと比べてどのように位置づけられるでしょうか。また大理の観音の説話は、他の地域のそれと比べ、構造上どのような相違がありますか。

授業でもお話ししましたが、大理の仏教密宗は、東アジア仏教のなかでも特殊なものです。観音信仰は、アジアでは『法華経』、そしてその一部をなす観世音菩薩普門品など、所依経典の漢訳を通じて変遷してゆき、その効験に応じて説話も作成され、日本では『妙…

仏教における神殺しの物語は、もともとの宗教から反発を受けたりしなかったのでしょうか。

もちろん、批判はあったでしょう。ただし、在来宗教の場合は文字記録として残らないので、伝わっていないのだと思います。しかし、例えば『南詔図伝』に描かれた梵僧への迫害が、在来宗教を信仰していた人々の、仏教に対する批判を表現している可能性もあり…

日本では僧侶が生き返るという話を聞いたことがありませんが、何かそういうエピソードはありますか。

いわゆる冥界訪問譚の関係でなら、一度死んだ高僧が七日経って生き返る、蘇生するといった伝承は多く残っています。しかし、『南詔図伝』の梵僧のように、殺害されバラバラにされたものが蘇生する、といった展開はあまり聞きません。日本では、神異僧のイメ…

日本の高僧説話だと、往生の際には屍体不壊のほかに紫雲がたなびき芳香が漂うなどの奇瑞がよく出てきますが、同様の描写は大陸のものにあるのでしょうか?

やはりありますね。臨終の際の芳香・紫雲表現は新しいものなので、『梁高僧伝』『唐高僧伝』にはあまりみえず、『宋高僧伝』になって多少出てきます。例えば、同書巻7義解篇/周魏府観音院智佺伝には、「其年十一月十一日に至りて、奄に終る。木塔の挙高三…

今回扱われた『南史』の宝誌が予言をする内容のうち、「四中に復た四有り」がどういう意味か分かりませんでした。

「4のなかにまた4がある」というのは抽象的、暗号的な表現ですが、この「予言」のなかでは、同泰寺の火災が4月の、さらに14日に起きたことを指し示しています。

仏教が神秘体験、奇跡体験を示すと、儒教や道教が反論するというのが意外でした。初回の授業で読んだ曇鸞の論では、仏教は道教の教えを根拠にしていたりしましたが、その逆はなかったのでしょうか。

ありました。曇鸞が『仙経』を受け取った陶弘景は、江南にて茅山仏教を大成してゆきますが、その教えのなかには、仏教の輪廻転生の考え方、そのプロセスを通じて自身の身体を清浄化してゆき、神仙へ至ることなどが組み込まれています。また彼は、仏からの夢…

宝誌の顔が割れてなかから仏がみえるというのは、なかなか驚くべき発想だと思いますが、これはどのような起源なのでしょうか(蛇の脱皮など?)。

宝誌が菩薩の真形を現すイメージは、もともとは、人間としての姿に菩薩の姿が重なるといった印象であったようです。それが北宋の頃を画期に、面皮を引きはがす様子に変わってゆく。そのオリジナルとしては、アニミズム社会で動物の皮が、人間と獣を区別する…

梵僧が被っている特徴的な帽子は、なぜ「特徴的」なのでしょうか。

授業でもお話ししましたが、民族社会では、人間のエネルギーが宿る場所として頭を重視します。それゆえに頭を刈り、場合によっては摂取する首狩りの習俗が存在するわけです。西南少数民族の間では、頭部を豪華に飾り立てる風習がよくみられます。一方で僧侶…

宝誌の身体的特徴は、帽子や行動などのほかは、『南詔図伝』の梵僧へ伝わっていないようです。何か意味があるのでしょうか。

宝誌の初期イメージは、身体的には老いさらばえた老人の印象で造形されています。一方、『南詔図伝』では、きらびやかな法衣、袈裟を身に纏った立派な体躯の梵像として描かれています。これは、国家仏教の守護神としての梵僧が、貧相な恰好では済まなかった…

『鉄柱記』では鉄の柱になっているものが、現在の少数民族文化では木製だという。なぜ鉄から木材になったのでしょうか。鉄が掘り尽くされてしまったのでしょうか?

もともと、六詔を生み出してゆく彝族の社会が信仰していたのは、木で作られた柱であったと思います。洱海地域が交易上重要な位置をなし、吐蕃や唐が接近して国家形成に至るプロセスを考慮すると、そのなかで立柱の金属化が行われたのでしょう。日本でも弥生…

『南詔図伝』に描かれた人の肌が、黒かったり白かったりしていますが、黒いものを野蛮に描いているのでしょうか。

『南詔図伝』の描き方をみると、六蒙、そして細奴羅や邏盛など南詔国王家の人々、そして梵僧、仏教に帰依した人々は白色系で書かれているのに対し、仏教に帰依せず梵僧を迫害した人々は黒褐色系の彩色を施されています。ここにはやはり、意図的な色彩の使い…

大理・南詔仏教に現れた梵僧と四川省の梵僧像との関連性が指摘されていましたが、同じく地域的に近いチベット仏教には、同様の影響が現れなかったのでしょうか。

チベット仏教も、南詔の仏教とほぼ同じような時期に形成されてゆきます。吐蕃は西域やインドにも近しいので、直接インドから高僧が招かれ、大蔵経の翻訳なども進められて仏教文化が栄えました。現在でもラマ教という名前が残り、ダライ=ラマなどは有名です…

梁や南詔は、自王朝の正統性を仏教に求め、それを表現することに執心したようだが、それは統治にどの程度有効だったのか。それほど仏教に影響力があったのですか。

2回目の講義でもお話ししましたが、南詔は吐蕃と唐にとって、西域や東南アジア、インドとの交易ルート上重要な位置にあります。7〜8世紀に南詔が国家として展開したとき、すでに唐には仏教文化が栄えていました。南詔は驃やインドとの関係から、最新の仏…