大理の仏教における観音信仰は、他の東アジアのそれと比べてどのように位置づけられるでしょうか。また大理の観音の説話は、他の地域のそれと比べ、構造上どのような相違がありますか。

授業でもお話ししましたが、大理の仏教密宗は、東アジア仏教のなかでも特殊なものです。観音信仰は、アジアでは『法華経』、そしてその一部をなす観世音菩薩普門品など、所依経典の漢訳を通じて変遷してゆき、その効験に応じて説話も作成され、日本では『妙法蓮華経』と『観音経』の普及により爆発的人気を得ます。しかし大理密宗では、あくまで観音は天竺僧の象徴としてイメージを肥大化させてゆきます。『日本霊異記』の語る「隠身の聖」が、大理では「観音」と位置づけられているといえば、分かりやすいでしょうか。中国西南地域の在来宗教文化では、神霊と交渉するシャーマンに特別な地位が与えられており、仏教もその地盤のなかで理解された結果、高僧=アジャリを神聖化し、観音にまで権威化する形態へ定着したのでしょう。