地図をみると、クシャーナ朝はそこまで気にするのかというくらい西にあるのですが、西域はそれほど緊張状態で兵を割かなければならなかったのでしょうか。

魏が大月氏国(中国ではクシャーン朝と月氏と連続する国家と把握していた)を重視したのは、蜀を睨んだ近攻遠交策でした。一方のクシャーン朝でも、時のヴァースデーヴァ1世(波調)は、勃興するササン朝ペルシャに対する備えとして魏との友好を望み、使者を派遣してきていたのです。魏が邪馬台国を重視したのも、朝鮮半島の安定、そして呉との対立を優位に進めたかったためで、やはり近攻遠交策の一環なのです。