卑弥呼の死で魏との外交が失われてしまったことに驚きました。難升米などの卑弥呼の近くにいた人々は、その後どうなってしまったのでしょうか。 / 『魏書』にはなぜ台与に関する記述が少ないのでしょうか。

『魏書』の記述に従うと、狗奴国との軋轢に対応すべく張政が邪馬台国へ渡ったようで、後継者が台与に落ち着くまで滞在し事態の収拾に当たったようです。どのくらいの期間か分かりませんが、一度男王が立って政権が混乱し、誅殺の嵐が吹き荒れ、そののちに台与が立って、彼女は使者に供献物を添えて張政を魏へ送還しています。張政の、邪馬台国に対する並々ならぬ思いが感じ取れます。しかし残念ながら、こののち魏自体が王権の簒奪に遇い、晋はほとんど倭国への興味をなくしてしまったようで、ヤマト王権へ至る過程の記録が残っていない状態なのです。晋に至って呉の討伐にも成功したため、魏のときに懐いたような倭の政治的重要性が希薄になった、ということかもしれません。