なぜ飛鳥のような場所に、6〜7世紀にかけて政治の中枢が置かれたのでしょうか。4世紀後半かわ河内に権力が移動したのなら、そのまま大阪周辺に置かれるのが自然だと思うのですが…。 / 飛鳥のような奥まった場所に、都が置かれる理由が分かりません。

河内から再び奈良盆地へ王統が移ったのは、授業でもお話ししたとおり、奈良盆地の王統に中国王朝とのパイプが強くあったためと考えられます。朝鮮半島の政治情況が混乱してくるなかで、それを俯瞰する政治的立場が必要になったとき、やはりよい高位の地位からの裏付けが必要になったのでしょう。当の朝鮮諸国自体が、同じような政治的動きをみせたこととも関わりがあると思われます。また飛鳥の地は、三方を山に囲まれた要害で、軍事的には守備しやすい地理的環境にあります。しかし一方で、南側には紀ノ川へ脱け紀ノ水門から瀬戸内海へ至る交通の要衝が開けており、4〜5世紀まではこのルートを通じて大陸や半島の優れた文物が入ってきていました。ゆえにこの場所を押さえていた葛城氏が、王家と婚姻関係を結び勢力を強大化させたのです。都を置く有効性はそれなりにあった、とみるべきでしょう。