大友王子が即位していたという話を耳にしたことがあります。追諡されたのは明治になってからですが、何らかの史料に基づいているのでしょうか。とすれば、それが残された意図は何でしょうか。

万葉集』や『懐風藻』には、大友が立太子していたという記述はありますが、即位していたという記録はありません。明治の追諡はその継承権を正統的と認め、現在の皇統の祖先に加えるために行われたものでしょう。『万葉集』や『懐風藻』という文芸は、近江朝廷をその発祥とする意識があり、天智天皇やその皇子たち、天武の皇子のうち政争に敗れた大津皇子などへの同情に満ちています。とくに『懐風藻』は、大友の孫である淡海三船を編纂者に当てる説があり、「壬申の乱で灰燼に帰した文芸を復興したい」と序文に宣言されていて、明らかに近江朝廷側に立った歴史観がみてとれます。