アンチモンですが、伊予より原材料を中央へ納めるより、地方で加工して銭にして納めた方が楽だったのではないかと思うのですが? / 当時はどのようにして金属鉱を見分けていたのでしょうか。

貨幣鋳造においては、実は未だ不明の点が多いのですが、和同開珎の生産に関しては、中央の催鋳銭司と河内などに置かれた鋳銭司の連携のなかで行われたようです。貨幣は権力の象徴でもあり、直接経済に関係してくるものであったため、偽金=私鋳銭は厳しく取り締まられました。和同開珎がまず中央にて生産されたのは、その設計や生産技術を中央が独占するためであったと思われます。なお、金属鉱の産出については、やはり渡来系氏族の知識・技術に委ねられていました。銅を産出した周防や山口などには、殖産興業的氏族である秦氏が分布しています。