朝廷と武力衝突した隼人は、対立できるくらい大きな力を持っていたのでしょうか?

隼人は、南九州にあってヤマト王権に服属していた集団で、東北の蝦夷と同じく水田経営を主体とせず、焼畑や狩猟・漁労などから成り立つ社会を築いていたと考えられます。彼らは、やはり九州という立地上、蝦夷よりも早くに王権へ服属していたようですが、当初は比較的緩やかな支配関係のなかで、これまでの政治・社会・経済を許容される形で推移していました。しかし律令国家の建設に伴って恐らくは支配が強められ、他地域と同じような支配関係のもと班田収授の適用が企図されて、水田経営を主体とする社会・経済へと改造が図られたのでしょう。それに対して隼人側へ不満が鬱屈し、反乱に至ったものと推測されます。当時の正史『続日本紀』には、大伴旅人率いる征討軍によって1年余りをかけて反乱が鎮圧され、1400人に及ぶ捕虜・戦死者を出したと書かれています。