ランケ的な実証主義が神の概念を欠落させて輸入されたとき、その代替として天皇制が機能したとの話を興味深く聞きました。しかしなぜ「天皇」であって、例えば「仏」や「釈迦」ではなかったのでしょうか?

面白い質問です。まず一つは、実証主義が国家の運営するアカデミズムで機能したものであり、それゆえに国家主義的傾向を強く帯びたことがいえます。つまり、例えば民間の仏教信仰ではなく、君主である天皇を基軸とする世界観に親和的であったわけです。また二つ目に、仏教は現在や現実を必ずしも進歩の結果とは捉えない、また現実世界の展開を仏の意志の実現とみるような歴史観は存在しないこと。それゆえに仏教の考え方は、国家という到達点を高く評価するランケ的な進歩史観には適合的ではなかったのでしょう。