推古朝には摂政や皇太子は存在しなかったとのことですが、ではいつどのようなきっかけで出来たのでしょう。
皇太子は、持統朝の浄御原令制か、もしくは大宝令制によって規定されたと考えられています。持統天皇は、以降の皇位継承を、天武天皇と自分との間に生まれた草壁の皇統によって継承させようと考えました。それは、天武王権が天智の子大友王子からのクーデターによって実現したため、その点への批判をかわし政権を安定させるために、天武/天智双方の血を受けた者が皇位を継ぐことが相応しい、そのような宮廷社会の合意があったためと思われます。持統は、天智の娘なのです。しかし持統朝においては、天武の長子であり壬申の乱の功労者でもあった高市皇子をはじめ、有力な皇位継承者が多くいました。彼らをなるべく政変によることなく斥け、意図したとおりの即位を実現してゆくためには、天皇が時期後継者を指名するという皇太子制が必要だったのだと考えられます。摂政についてはもっとずっとあとの平安前期、文徳朝もしくは清和朝の藤原良房が最初とみられます。幼帝の出現により、太政大臣の官職にあった良房が政務の代行したのが始まりで、やがては摂政宣下の詔により独立して任命される役職となってゆくのです。