アジア太平洋戦争以前まで、農村では、庶民は米ではなく麦や粟、稗、芋などを主食にしていたと聞いたことがあります。雑穀や芋の育成には、米ほどの多量の肥料を必要としないような気がするのですが、柴草山から刈り取られた肥料が米以外の栽培にも使われたのか疑問に感じました。幕府が年貢を芋や雑穀で集めれば、柴草山の拡大を止められたのではないでしょうか。

刈敷は稲作のみでほぼせいいっぱいの情況だと思いますので、原理的には畑作にも使用可能で、農書にその類のことも出てきますが、水田以外にはあまり使用されなかったと考えられます。米が歴代王朝、政府によって租税化されたことは、その制作過程における労働編成、収穫後の計量しやすさ、栄養価の高さのほか、保存性に富むことも重要な要因でした。この点、他の雑穀、根菜類より秀でていたことは確かでしょう。幕府は、農村からの徴税は米を中心に行い、そのために水田が拡大し、柴草山も増大したわけですが、山村など物理的に無理があるところについては、薪炭その他の生産品での貢納も限定的に許可しています。このような柔軟な体制が一般化すればよかったのでしょうが、一方で武士・職人・商人ら非食物生産層の生活を賄うためには米穀が必要であり、画一的支配の必要性もありましたので、現在的視点で適切と思えるような徴税体制が充分に採られなかったことは否めません。