刈敷を得るための柴草山ですが、何とか技術改良をして柴草山を減らす、ということは不可能だったのでしょうか?

江戸時代の場合、技術改良は拡大する米穀の需要に応えるため、寒冷地にも適応しうる稲の品種改良、栄養価の高い米穀を多く得るための肥料の改良、そして水田地の造成(新田)などの形で進行しました。その結果が、柴草山の拡大と、その衰退に軌一する金肥の利用であったわけです。水田も、環境への圧力を最小限に止める形式でなら問題なかったでしょうが、租税化により当初からその選択肢は排除されており、制度の開始点においてすでに方向が誤っていたと考えるべきでしょう。