物語り論的歴史理解において、意図的に歴史となるものと思って作る公文書を避け、私人の意図せぬ書き物こそが史料的価値として捉えられるとするのは、面白いと思いました。ただひとつ気になったのは、社会の生活のなかで書き連ねられたものが、必ずしも、意図的な思惑がないといえるのでしょうか?

うーん、前半のような話はした記憶がないのですが、何か誤解があるのでしょうか。現代歴史学は、いわゆる政治の世界、あるいは国家レベルで生み出されたものではなく、『八重子の日記』のようなエゴ・ドキュメント(個人的記録)を含め、いかなるものをも史料として扱います。もちろん、そのなかには意図的に虚構を描いたものも存在しますが、それはあらゆる史料において想定しうることで、だからこそ史料批判と呼ばれる分析技術が存在するのです。書かれたものをそのままに受け取ることは、現代歴史学ではありえません。この講義で問題としているのは、「しかしそうした史料批判の方法も、ある価値や基準に基づいたものである限り、絶対ではない。その問題点や課題を把握しながら、どうよりよいものを目指してゆくか」ということなのです。