実証史学における史実という概念が、一定の物語りとして紡ぎ出されていることは確かです。しかしだからといって、factに向き合おうとする真摯さや誠実さを放棄してしまえば、マイナスの意味での諦念に満ちた相対主義に陥るだけです。文化人類学などでも、かつて、文化の多様性を尊重するふりをして単なる無関心と自己正当化にはまりこんでゆく、悪しき相対主義が蔓延していました。その行き着く先は、お互いに対する理解を放棄した孤立、もしくは闘争のみです。史実に問題があるのならば、それをめぐる対立をどのように解消できるのか、それに関わる人々が共有できるfactとは何なのかを、真剣に議論してゆく必要性があります。