「物語る」ということのプラスの機能の世界把握のツールの例として、宗教が挙げられていますが、多神教の神々は自然現象の説明をしているといえますが、一神教の神も同様なのでしょうか。同様ならば、何を説明しようとしたのでしょうか。

一神教の問題は、今後扱うことがあると思いますが、世間で一般的にいわれている一神教唯一神信仰・閉鎖的、多神教=開放的との位置づけは、多く政治的なデマゴーグか誤りを含んだ言説であることを、まずは知るべきです。宗教学や神話学の世界では、とくに9.11の前後からこのデマゴーグが盛んになったことを受けて、再考する動きが強くなってきました。例えば一神教の代表のようにいわれるキリスト教においても、イエス以外に神聖なるものは多数存在しています。教学的にいかに理由をつけようと、すでにヤハウェ神以外にイエスが存在する時点で、それはもう多神の世界です。一方、聖書において多神教の最たるものとして批判されているバアル神などは、王権の支持を受けたパンテオンの頂点に君臨する存在として、一神教的な要素を強く持っている。日本の浄土真宗における、阿弥陀信仰なども同様です(しかもこの浄土真宗が日本佛教の最大派閥であることは、「日本は多神教の国」という不正確なステレオタイプの理解に疑問を投げかけます)。こうしたことを前提にしたうえでですが、例えばユダヤキリスト教の神について考えたとき、それは多神教の場合のように森羅万象の、もはや自然現象だけではなく歴史事象の説明原理としても機能していることを見出せるでしょう。唯一神的なものの成立過程においては、例えばそれを信仰する集団が他の神を奉じる集団を駆逐することによって生まれてくるタイプと、逆に多くの神を吸収合併して成立してくるタイプ、両者の間のさまざまなレベルでの中間的存在が想定できますが、いずれにしろ、人々の「説明原理としての期待」を多かれ少なかれ反映したものにはなってゆくと考えられます。