「国民は創られたものである」という言説の弊害だと思うが、我々はそれ以前の人々の地縁的感情を分かりづらくなっていると思う。そもそも、そのような感情は自然なもので、それを「国」という枠組みまで拡大したものが「国民」という意識なのだろう。

まず、前近代の国家と、近代の国民国家とは、明確に分けて考える必要があります。確かに、国民国家が構築したナショナル・ヒストリーは、個々の地域に生きた人々の持つ地縁意識、血縁意識を延長したものではありますが、それらとの齟齬も大きく、統一には大きな軋轢がありました。日本の学校教育ではそのあたりのことをほとんど扱いませんが、明治維新の統一戦争と神道国教化に至る廃仏毀釈、神社合祀などの問題は極めて重要で、例えば後者に関わる神道事務局祭神論争においては、アマテラスとオホクニヌシのいずれを最高神とするかが争われました。実は、江戸期以来の国学的伝統に則れば、後者を最高神とするのが多数派意見だったのですが、明治政府中心と結びついた前者を推す勢力が天皇を担ぎ出して勝利を収め、そのことによって現在の「神道の常識」が完成するのです。帝国日本の国民意識と、前近代の各地域が育んでいた地縁・血縁意識とは、質的に大きな差異があるのです。ちなみに、国民国家研究に欠かせない『想像の共同体』を著したベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズムの成立について「遠隔地からのイマジネーション」の問題を提起していますが、これは、「故郷という概念は近代にいたって成立した」という近年の歴史学研究の成果とも関わります。国際交流が活発化するなか、遠隔地より自らの国を遠望したところから、具体的な地縁・血縁を超越した抽象的な国家意識が立ち上がる。それと軌を同じくして、国家が民衆を管理し移動を抑制するための故郷概念が喧伝される。事態は極めて複雑に展開してゆくのです。