保苅実氏の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を読みました。そこで、グリンジの人々は神話と歴史が混合して、歴史語りをしているとありました。彼らの基準からすれば、それが神話か歴史かというのは、重要ではないという話だったと思います。日本においても、ある時期まで混在していたと思うのですが、どうでしょうか? / 事象に何らかの特別な意味づけを与えると、神話になりうるということでしょうか?

そうですね、神話/歴史といった区別は、ある意味で研究者による分類に過ぎないのかも知れません。このあと授業でも扱うつもりですが、歴史感覚が発展してくると、神話と歴史とは過去の時間のなかで接続され、神々の時代は特定の時間のなかに置かれることになります。文字によって書かれると、その固定化も強まります。一方で、前回のワ族の毛沢東認識のように、近い過去の経験を神話化する実践も存在します。それが自らの生活を規定する何らかの起源を示しているなら、神話として作用する可能性があります。いずれにしろ、定義に当てはめて解釈するのではなく、その過去がその集団においてどのように認識され、利用されているかを具体的に考えることが大切でしょう。