西洋でも、冥顕論のような(異端的な)解釈が主流になった時期はあったのでしょうか?

まず正確を期すために述べておきますが、幕末〜明治にかけては冥顕論が定説だったのであって、異端的ではありません。現代の人間がこれを異端的とみるのは、ものの見方が近代神道に馴らされているからに過ぎません。古代から近世に至る神祇信仰の歴史を通覧すれば、近代神道こそがまさに異端的なのです。なお、キリスト教においてもさまざまな議論があり、多くの学説が提示されては消えてきました。「異端」というならば、宗教的寛容と多宗教の共生を謳う現在の教会のあり方こそ、かつての厳格主義からみれば「異端」的なのかもしれません。それはともかく、異端審問の厳しく行われた16〜17世紀のイタリアにおいても、古ヨーロッパ的な信仰が庶民社会に強固に浸透していたことについては、カルロ・ギンズブルグによって明らかにされています。広大なヨーロッパにおいてキリスト教的信仰が画一的純粋性を保ちえたとは思えず(現実に地域的多様性と、地域の習俗を反映した痕跡も多く残っています)、まずは正統/異端という枠組みの限界を前提に考えなければならないでしょう。