葛野秦氏は、玄界灘の宗教環境を本拠地に再現していたため、北陸から可能性は低いとのことでしたが、このような宗教環境が伝聞によって再構成された可能性はないのでしょうか。 / 葛野秦氏は、なぜそもそも玄界灘の宗教環境を再現したのか。玄界灘に宗教的なアイデンティティーを持っているのでしょうか。

考古学的には、秦氏の渡来と前後して、海人集団の東遷という事態が生じています。北九州地域の海人集団に固有の遺物が、瀬戸内海や淀川周辺の古墳等から発掘され、北九州から畿内諸国へ、海岸部から内陸部へという、同集団の移動があったのではないかと推測されているのです。秦氏に一括されることになった人々は、朝鮮半島から北九州地域へ渡海をしてきて、それなりに長い時間をかけ、このような社会の流動化のなかで、移動をしてきたものと考えられます。それゆえにその移動経路上には、秦氏の伝播が認められる。もちろんその伝播は、のちに王権によって意図的に移配されたものも多かったとみられますが、渡来時に定住し、のち秦氏擬制的氏族内へ組み込まれたものも少なくなかったと考えられます。北九州や播磨、讃岐などは、そのなかでも最も秦氏の分布が濃厚な地域です。秦氏玄界灘の宗教環境に拘ったのは、やはり渡海が困難な試みであり、それゆえに宗像女神=市杵嶋姫命に対する信仰を強くしたためでしょう。月読社を奉仕している壱岐氏とは婚姻関係もありますし、対馬氏ら海人系氏族とは協力関係にあり、移動もその連携のなかで達成されてきたとみられます(中世以降対馬支配下に置く宗氏などは、秦氏=惟宗氏の子孫を標榜しています)。葛野の玄界灘的宗教環境は、その担い手の一端が壱岐対馬の氏族であることを考えても、伝聞ではなく、渡来時に構築した氏族ネットワークを反映し作り上げられたものと考えたほうがよさそうです。