『淮南子』で粟を降らせた天は、キリスト教の神と違ってずいぶん優しい印象です。中国の天、ヨーロッパ・キリスト教の神に対して、それぞれの地域の人々が抱く感情には、何か違いがあったのでしょうか。

ここでの天は、確かに優しいですね。高誘が『淮南子』の文章を解釈して再創造した内容で、独自の意味を持つと考えたほうがよさそうですが、もちろん当時の神観念と無関係ではありません。中国の天は、ユダヤヤハウェほど人間に期待していない、人間へ使命を背負わせその履行を求めるような存在ではありません。ただ生きるものを慈しむ徳を持ち、その価値観に反する行いには譴責と災禍をもって応えます。粟の話は慈しみの表現でしょうが、同時に、天が文字を危険視しているという認識も窺うことができます。『淮南子』は、前漢武帝に対し、のちに謀反を企てて自害する淮南王劉安が奉献した思想書ですが、当時の校庭周辺の学問に対する批判も込められているのかも分かりません。