殷代において卜占が形式的になっていったのはなぜですか?

武丁期に最盛期を迎える甲骨卜辞においては、王の一挙手一投足を卜占するような状態であり、それゆえに卜辞を通じて王の事跡が記録されたわけです。しかし帝辛期にはそうした臨時の卜占がなくなり、卜占の回数自体も減少して、王の事跡を詳細に記録することができなくなってきたわけです。もともと卜占の頻繁な実践は災因論の高まりと密接な関係があり、王権が複数の神霊に影響されているとの信仰が存在したことによります。卜占数の低下はそうした意識の弱まりを意味しており、恐らくは帝辛の世俗的権力が拡大したこと、それに伴い神霊への畏怖を払拭したことを暗示します。実際、帝辛は周辺諸方を攻撃して外部への圧力を高めており、しかし祭祀を蔑ろにしたわけではなく、意図的に改革を進めています(恐らくは自己の正当性を表現する形式へ制度を改めようとした)。その結果、逆に抵抗勢力の強化と結束を生じてしまったわけで、やはり未来を展望することができなかったという意味では皮肉なものです。