児玉作左衛門によるアイヌ遺体の収集は、戦後も行われていたとするなら、それはGHQ統治時代に行われたのでしょうか、それとも占領終了後でしょうか?

記録に残っているところでは、GHQによる占領の終了後、少なくとも2ヶ所で北海道大学による墓地発掘が行われています。ひとつは、1964年の、江別市対雁地区。千島樺太交換条約の締結で、明治政府が樺太南部のアイヌ108戸841人を同地区へ強制的に移住させたが、コレラ天然痘によって10年ほどの間に半数が亡くなった。1960年代、北海道電力火力江別発電所の建設工事、洪水による表土の流出で大量の人骨が出土、児玉率いる北海道大学医学部が、発掘調査にあたり数10体を大学へ持ち去った。もうひとつは1972年、北海道静内町(現新ひだか町)において、やはり児玉率いる北大医学部が、166の墓地を発掘したもの。児玉は1930年代以来、アイヌの人骨に残る損傷痕跡を「人為的」なものとし、もともと彼らには屍体の脳や眼球を薬食する風習があり、これは日本への同化=文明化によって減少したとして、旧土人保護法的な同化政策を正当化してきました。戦後の発掘もその論の補強に使用されたようですが、結局は死の直前になって、「これまでの推定は誤りであり、損傷痕跡は鼠に囓られたものだった」と自説を変更しています。この問題の詳細については、植木哲也『学問の暴力』(春風社、2008年)、北大開示文書研究会編『アイヌの遺骨はコタンの土へ』(緑風出版、2016年)に論及されていますので、ぜひ参照してください。