東京オリンピックの際、景観・共同体の解体が起きたといわれましたが、具体的にどのような共同体の解体ですか。ホームレスのような人たちでしょうか。

1964年の東京オリンピックの際には、東京の景観は一変しました。よく知られていることですが、未だ江戸期の面影を残していた縦横無尽の水路、河川がほとんど埋め立てられ、あるいは暗渠になり、買収の必要のなさから、首都高はほぼ河川の流路のうえに建設されました。日本橋が首都高の下に入ってしまったのもそのためです。ぼくがしばらく考察の対象としていた鮫ヶ橋では、オリンピック開催時、すべてをクリアランスしてしまおうとの計画も持ちあがったようでした。その背景には、例えば、1960年制定の住宅地区改良法があります。その第1条には、同法の目的として、「この法律は、不良住宅が密集する地区の改良事業に関し、事業計画、改良地区の整備、改良住宅の建設その他必要な事項について規定することにより、当該地区の環境の整備改善を図り、健康で文化的な生活を営むに足りる住宅の集団的建設を促進し、もつて公共の福祉に寄与することを目的とする」と規定されていますが、要は、オリンピックの開催を契機として、戦後の混乱期に増大したスラムのクリアランスを狙ったものでした。代々木の国立競技場建設の際には、この流れで立ち退きを強いられた住民が多くありましたが、その大半は、競技場南側に建設された公営住宅、都営霞ヶ丘アパートに収容されました。それから60年ほど、同アパートに住む人々はほとんどが年金受給層となり、限界集落のような様相を呈しています。そうして2020年の東京オリンピックへ向けて、国立競技場の修築に伴い、再びここに住む人々は立ち退きを要求されている、すなわちクリアランスされようとしているのです(単なるクリアランスではなく、そのあとの用途がメガ・イヴェントの開催による新自由主義的な利益誘導に繋がってゆきますので、ジェントリフィケーションといったほうが正確なのでしょう。)。オリンピックは、かつて経済発展の起爆剤のようにいわれてきましたが、世界経済自体が限界に到達しているなかで、その開催にはマイナス面も多く指摘されるようになってきました。事実、現行の状態でも開催誘致、開催施設建設、広告宣伝のために莫大な資金が費やされ、東北復興の資材・労働力不足が深刻化するなど、たくさんの弊害が生じています。オリンピックの開催に、それを埋め合わせるような効果があるとは、とうてい考えられません。ぼく自身は、東京オリンピックの開催には反対です。