的ヶ浜に集住していた人々のなかに、在郷軍人が含まれていたことは驚きでした。近代日本で、名誉あるものとして扱われ、恩給も支給されているはずの軍人が、なぜ被差別対象とされるに至ったのでしょうか。

当時の『大分新聞』では、焼け出された在郷軍人の次のような証言を記載しています。「国の勝手な時に国の軍人と言い、命を的に戦場で働かせ、時によっては乞食扱いにされて家を焼かれ、また、生きていく望みまで奪うとは実に闇の世界だ」。当時のジャーナリズムがどの程度正確に対象の証言を記録したかは分かりませんが、零細な家庭から兵役に就いた者や、被差別部落から徴兵された者は、予備役・後備役、あるいは退役してのちも、貧窮した生活を余儀なくされる者が多かったのです。別の単元でお話しした、東学党殲滅部隊に召集された四国の後備役の兵士たちも、多くは零細な階層で、妻も死に子供を捨てて従軍した例もあったと、当時の新聞が報じています。的ヶ浜に暮らしていた在郷軍人3名は、竹細工で生計を立てる被差別部落出身だったとの説もあります。「軍人の名誉」云々も、それ自体が皇民創出のプロパガンダですから、充分に史料批判せねばならない言説です。