的ヶ浜事件ですが、的ヶ浜隠士の文章が発表されてから、何か事件をめぐる情況は変化したのでしょうか?

的ヶ浜隠士は、恐らく同地域の浮浪者たちを援助していた真宗木辺派の僧侶、篠崎蓮乗であったと思われます。彼の抵抗運動と、憲政会系の地元紙『大分新聞』が官憲を糾弾する論陣を張ってゆきます。篠崎は、当時反差別の活動を開始していた水平社に協力を求め、同社もこれに呼応しますが、内務省が的ヶ浜の浮浪者を「山窩乞食」としたことで、両者の協働は解消されてしまいます。当時、水平社は被差別部落の解放を主眼としていましたが、その論調は、いわゆるエタ・非人と呼ばれてきた人々はきちんと定住し、兵役をはじめとする国民としての義務を果たしうるのだという、部落の国民的正当性を訴えるものでした。それに対して「山窩」と呼ばれた人たちは、非定住の放浪集団であり、内部に多くの犯罪者を含むとみられていたのです。水平社の撤退は、「山窩」と自分たちを一緒にされたくないという政治的判断であったとみられ、当時の抵抗運動の限界を示していると考えられます。