広島では原爆に関することが平和学習と題して行われ、クリアランスをせず、できる限り克明に原爆を伝えようとしてきました。最近では、資料館の原爆人形を除去するなどのクリアランスも行われていますが…。

そうでしょうか。例えば、授業でも扱った基町・相生通りなどは、かつて存在したバラックが一掃され、清浄な公園・河川沿いの遊歩道として整備されています。これはやはり昭和30〜40年代、平和的復興の名のもとに、広島市内の各河川沿い、広島城の御堀端などに集積されていた不法バラック(原爆被害によって家を失った人々が、バラックを建て失業対策事業の労働などで生活していた)を一掃する計画が立てられ、実行された結果です。当時市会議員であった任都栗司が、基町のバラック群を「原爆スラム」と呼んで差別し、あたかも戦後復興の汚点であるかのように扱って、クリアランスの対象との雰囲気を醸成してゆくわけです。バラック群のうち、最後まで残った基町には、強制退去させられた人々が流入してゆきますが、昭和40年代になると同所では、その密集性から大火が置きやすくなってゆき、焼け跡となった場所は市によって厳しく立入が禁じられるようになりました。別に市を疑うわけではありませんが、明治の東京においても、スラムが大火を契機にクリアランスされることが相次ぎ、行政による放火だったのではないかとの説もあります。経過が似すぎていて、少し怖ろしい気がします。