先生は、何か歴史上の物事や出来事を考えるとき、1つのことに対して2つの事実と思われる、または2つの見解があった場合、どちらをどのような方法で調べたり、考えたりしながら選びますか?

ありていにいえば、それが歴史学という学問の営為です。ただし現実は、研究者が過去に向かった場合、選択肢は二項対立ではなく、無数に枝分かれしています。また、選択肢として顕在化していない、可能性の状態でしかないものもたくさんあって、研究者であればむしろ、その「みえない可能性」のほうを探し続けることになるでしょう。歴史学の方法はある意味で単純で、究極的には、ある事実を立証できるような史料をみつけることです。いや、そういういい方だと結論ありきなので、仮説を立てそれを立証しうる史料を探し(文字どおり物理的に探すことと、それを読み込むこと)、そこから読み取った情報によって仮説を修正してゆくことです。史料の渉猟の範囲は、いうなれば無限です。自分の考察に関係のありそうなものであれば、空間的にも時間的にも、広く深く探し、読んでゆきます。ぼくもその実践の結果として、もともと日本の古代の研究者であったものが、民俗学や人類学の方法を学び、中国の少数民族の調査をし、仏教・儒教道教の経典を読み、近現代史の論文まで書くようになってしまいました。そうして辿り着いた結果が、例えば自分が属する国家にとって対面の悪いものであろうがなかろうが、自らが探り当てた事実に忠実にふるまうのが研究者というものでしょう。