私は宮崎県出身なのですが、宮崎県には平和の塔と呼ばれる塔があります。戦中には、八紘之基柱という名で、中国や朝鮮の石や労力が使われて造られた造られたそうです。いま、中国からこの石を返してほしいといわれているらしいのですが、私たちはこの塔を侵略の塔ではなく、自分たちの生活に当たり前に存在する平和の象徴と思っています。しかし、この塔に祈る行為は他の国に対してよい意味を持たないのではないかと思います。福澤諭吉に二面性があるように、歴史にも二面性があります。生まれると人はどこかの国の国民になるわけで、どちらかにアイ

持ちうるでしょう。そもそも、生まれた国によって決定される国籍を絶対視するのは、血縁主義の日本だからともいえます。国籍とは本来制度であり、変更可能なものですが、日本の場合、国籍を得る要件として「父もしくは母が日本人であること」があるため、アプリオリに決まっているかのような印象が生じてしまいます。よって、例えばアメリカ人とはアメリカ国民のことですが、日本人とは日本民族のことであるという誤解が出来してしまう。グローバル・ヒストリーなどのものの考え方も、トランスナショナリティの効果を企図するものですので、出生した国に縛り付けられる必要はないだろうと思います。なお八紘之基柱については、八紘一宇自体が極めて専制帝国的な概念なので、どう取り繕おうと平和の塔にもなりえません(拙稿「〈八紘〉概念と自民族中心主義」 、『歴史評論』790、2016年)。