生命の循環が輪廻のなかで起こっているのなら、そこで殺害が行われたとしても、輪廻の枠組みから大きく外れることはないのではありませんか。仏教が、なぜ殺害を戒めるのかが、よく分かりません。また、仏教の生殺与奪は、基本的に動物のみを対象としているのでしょうか。植物を含めて考えるなら、基本的に何かを食べなければ生きていけない人間である僧侶たちは、どのように折り合いを付けているのでしょうか。

仏教は、輪廻のなかで生きること自体を苦しみだと捉えますが、その輪廻に生命を縛り付けている悪業のうち、最悪のものを殺生と捉えているわけです。仏教は生命の循環を維持しようと考えているわけではなく、そこからの離脱を最上としますので、殺生戒を設定しているのです。また、仏教教団のなかにおいても、成立から大乗仏教の誕生、そして現在に至るまでに、生命に対する考え方は変化してきています。肉食について、原始仏教教団では、〈三種の浄肉〉といって、自分に施すために殺されるのをみていない、自分に施すために殺されたのだと聞いてない、自分に施すために殺されたという疑いがない肉は、食べてもよいということになっています。しかし、大乗仏教化によって殺生戒がより厳密になってゆくと、植物についてもこれを適用しなければならなくなってゆくので、「植物は生命ではない」と考えるようになりました。しかしまたさらに、中国や日本へ仏教が伝来しますと、草木を人間と同質の生命だと考える認識が広がり、「これまでの考え方ではあらゆるものが覚りを開けなくなってしまう、ゆえに超越的尊格に帰信することで救済されることを願う」信仰へと変質してゆくわけです。日本で流行する浄土宗、浄土真宗などは、このような傾向が強い宗派です。