トーテミズムなどにおいて、無機物を信仰するという事例はあるのだろうか。あるとすれば、それに対しても、トランス・スピーシーズ・イマジネーションは発現するのだろうか?

以前、樹木が伐採に抵抗するという伝承を、中国から日本にかけて集めていたことがありました。その抵抗の形式で最も多いのは、切り口から血が噴き出すというものです。これなどは、樹木を「人間と同じもの」と表象した結果、生まれる表現であろうと思います。これと全く同じ形式で、石を対象としたものが、和歌山県に残っています。確か、和歌山城の建設の際の伝承であったと思いますが、城の石垣に使用しようとして断ち割った石から血が噴き出す。樹木に適用された形式が、無機物の石にも適用された事例です。必ずしも、TSIのみによるものではなく、祟りなどの形式に近いのではないかとも思うのですが(すでに奈良時代の正史『続日本紀』には、西大寺の塔の心礎に使おうとした石から祟りがある、といった記事が出てきます)、どこかしらに、「石であっても割られたら痛いはず」という感応の姿勢があったのではないでしょうか。石を神として信仰することは縄文時代よりあり、近現代に至るまで、柳田国男折口信夫民俗学によって、列島各地に見出されています。