遣唐使任命について、藤原時平が道真を排除するために補任したとの説を聞いたことがあります。中国情勢だけでなく、日本国内の政局を意識した論があまりないことに違和感を覚えました。先生は、遣唐使廃止の原因に権力闘争が絡んでいたとお考えですか。

宇多〜醍醐朝の朝廷では、変転する社会に対応する新制度を創出すべく、寛平・延喜の国政改革が進行していました。具体的には、機能しなくなった戸籍・班田を基礎とする人頭税を改め、税目を定数化・変成替えして田率賦課する土地税に基づく、王朝国家体制への移行が図られていたのです。その中心にいたのが、一時期讃岐国などで地方の実情を目前にし、新たな政治のあり方を模索し成果を上げていた、菅原道真でした。この国家的課題は、当然朝廷の首班にあった摂関家藤原時平らも共有していたので(一方で国司の検田権強化や荘園整理も断行したため、利益を追求する藤原氏らとの対立が深まったとの意見もありますが、それでは当時の〈国家〉なるものが、有力貴族の私利蓄積のためにのみ存在したかのような誤解を生じます)、道真の存在は、当初時平らに必要不可欠であったのです(事実彼は、道真を左遷したあと、その政治路線を継承・発展させてゆくことになります)。しかしのち、道真が娘を醍醐天皇実弟斉世親王に嫁がせると、俄に摂関家の権力集中に危機感が生じ、彼の政治的突出を疎外するような動きが生まれます。道真の出世は氏族・門戸のあり方からすると異例であったため、貴族社会に彼を擁護する勢力は少なく孤立を深め、結果として謀反の嫌疑をかけられ左遷されるに至るわけです。しかし、彼が公卿に列して間もなくの遣唐使補任の段階では、まだ時平にとって道真は、利用価値のある能吏であったと考えられます。