現在、外国からの使者を殺害してしまったら大問題になりますが、懐良親王は明の冊封体制下に降ったのち、それについて咎められることはなかったのでしょうか?

滅びてしまった懐良親王側の史料が残っていないため分からないのですが、恐らく、不利な条件のもとで冊封を受けなければならない情況に立たされたと思われます。明側の主要な目的は倭寇の禁止にありましたが、そのことは、倭寇の一部を勢力に入れつつ北九州の制海権を握り、自らの勢力基盤としていた懐良にとって、あまり受け容れたくない要求であったはずです。最初に明の使者を斬殺し、やがて政治情況の変化に伴い冊封を受けざるをえなくなった懐良は、その事件のために相応の強硬な要求を受諾せざるをえなくなったと考えられます。