当時の懐良親王は、未だ皇子であって天皇ではありません。どうして明は、そんな彼に「国王」の称号を与えたのでしょうか。

これも懐良の具体的な交渉のあり方によることでしょうが、恐らくは南朝の失墜を前に(南朝天皇は自分の甥の長慶天皇となっていた)自らの即位を希望していたか、南朝による京都の回復を断念し九州を独立王国にしようとしたかのどちらかでしょう。なお、交渉のどの段階でか、懐良は明へ僧侶ら400人に及ぶ使者団を派遣しています。彼らは中国で政争に巻き込まれて流刑となり、現雲南省の大理へ送られますが、同地で文人たちと交わした望郷の歌などが、近年新たに見つかっています。