日本の朝廷や皇室との軋轢を避けるべく、明使の接見儀礼(冊封儀礼)を秘密裏に行おうという義満の意図が、側近の武士たちには共通認識として存在したのでしょうか?

そのあたりは難しい判断になりますね。儀礼の詳細は記録としては残っていますので、完全に秘密が保たれたかというと、そうではなかったろうと思います。管領斯波義将が義満の対応を批判したのは、その儀礼の詳細を知ったうえでも「事過ぎたる様」と判断した可能性はありますし、あるいはさらに深読みして、義満が公家社会の不満を解消すべく、あえて義将に自分を批判させたとも考えられます。