新たに『宋朝僧捧返牒記』が出てきて、以前までの様相を覆す内容であると、以前までの資料は誤りとみなされてしまうのでしょうか。それともやはり編者や他の資料との一貫性などの情報に基づき、それぞれの資料を相対化して、どれが「正しい」とみなされるかを決めてゆくのでしょうか。『福照院関白記』や『満済准后日記』は、日記であるぶん主観が入ってしまうと思うのですが。

これまでの授業でもみてきましたが、現代歴史学では、史料を「正しい」「誤っている」という、二者択一的な見方で価値付けたりはしません。『福照院関白記』や『満済准后日記』は、確かに書き手の主観から成り立っている文献ですが、それゆえに、問題の事象は二条満基にどうみえていたのか、三宝満済がどう考えていたのかを探る、一級の史料でありうるわけです。その存在価値は、『宋朝僧捧返牒記』が現れてのちもまったく変わりません。