弥生後期の農業生産において、鉄器の利用率はどの程度あったのか?

鉄製農耕具が一定量流通し普及したのは、やはり北九州地域であったようです。弥生時代における列島の鍛冶技術は未だ成熟してはいなかったので、その利用にはやはり限界があったと考えられます。瀬戸内海沿岸から近畿にかけての地域は、北九州と比べて著しく流通は制限されますが、それゆえにこそ鉄器への強い需要があり、僅かながらでもそれらを入手し分配できる首長は、高い権威を獲得したとみられています。一方、日本海側には朝鮮半島から鉄製武器がダイレクトに入って来たため、それらを私有するハイレベルの首長たちの高度なネットワークが築かれていました。これらの繋がりのなかで、鉄器は流通および威信財として大きな意味を持ち、社会や経済、政治のあり方を変化させていったと考えられます。かつては、鉄製農耕具による余剰生産の増大が階級分化の要因のようにいわれていましたが、現在ではその点は限定され、より大きな文脈において鉄器の意味が問われているのです。