ヤマト王権(雄略期)の支配領域について、東国〜九州とのことでしたが、このとき、東北には蝦夷がいたのだろうと思います。平安では戦闘になっているのに、この時代はそうはならなかったのですか?

以前の回答でも少し書きましたが、東北では古墳前期から、太平洋岸地域に前方後円墳が確認でき、縄文時代以来の西方との社会的相違のなかで、しかし首長制社会へと移行する集団があったことが窺われます。しかし、飛鳥時代以降の蝦夷の活動をみると、そこには、平準化された共同体よりなる狩猟採集社会が広汎に存在したようです。東北は、日本海側と太平洋側の相違もあるでしょうが、そうした質的に異なる集団が混在し、場合によっては軋轢を抱え込んでいる状態だったのでしょう。首長制社会を選んだ人びとは、ヤマト王権との繋がりを軸に、共同体社会を支配下に置こうとしていたと考えられます。ヤマト王権はそうした陥穽に入り込み、飛鳥時代以降、制圧戦争によって版図を拡大してゆくのです。