天皇のなかでも、大友皇子や草壁皇子のように、即位をしていなくても○○天皇として位置づけられる例がありますが、誰がどのように判断しているのですか?

大友皇子弘文天皇と諡を献じられたのは、明治になってからのことです。近代における天皇家の神聖化のなかで、政治的に配慮された結果です。また草壁皇子は、天平宝字2年(758)8月、淳仁天皇によって「岡宮御宇天皇」として追諡されます。当時、奈良王朝の皇位継承の共通理解であった、「天武と持統の子である草壁の子孫が皇位を継ぐ」原則が崩れ、孝謙上皇の後見のもと草壁の弟である舎人親王の子、大炊王淳仁が即位していました。淳仁と、その参謀ともいうべき岳父の藤原仲麻呂恵美押勝)は、その出自の不安定さを糊塗するために、あえて草壁を天皇として神聖化し、血統では齟齬があるものの理念上は子孫であるとの喧伝を行ったのでしょう。