王位継承をめぐる対立があり、実際に誰かが王になったとしても、税を納める農民など一般の人びとは、どの人が王になったと知らされていたのでしょうか。もしそうでなければ、何のために王位に拘るのでしょうか。

王の代替わりは、ヤマト王権に服属していた豪族たちには、間違いなく知らされていたと考えられます。前回お話しした奉事の関係もあり、大王と自らとの臣属関係を更新する必要があったからです。例えば出雲国造は、その代替わりごとに中央へ登り、天皇への服属儀礼として神賀詞を奏上することが義務づけられていました。その規模の大小や形式の相違はあれ、同じようなことが各氏族と王権の間で執り行われたのでしょう。ワカタケル大王の名前を刻んだ稲荷山古墳の鉄剣銘や江田船山古墳の鉄刀銘は、その形象化であるともいえるでしょう。ただし、それ以下の一般庶民へどれだけ周知されたかは、残念ながら分かりません。王権の直轄地のような畿内と、東国や九州とでは、地域によって差違も大きくあったものと考えられます。なお、天皇は即位した時点で今上となり、固有名詞を失います。これは天皇という地位が、まさに王権の一機関であって、個性によって成り立つ地位ではないことを明示しています。誤解を恐れずにいえば、即位とはある固有の人物が王になるということではなく、普遍的な存在である王がある個人の心身を借りて顕現するということなのです(あくまで理念的には、ですが)。