飛鳥の王朝にみられる、合理的な政治のあり方と、非合理的な神話や祭祀のあり方が共存しているところに、日本の奇妙な魔術性の根源があるように思われた。人びとが信じる神々が、彼らが無自覚な外部において政治へと収斂されてゆく統治の機構こそ、現代に至るその魔術性の基礎になっているのではないか。

深いですねえ。まさに、その仕組みが現在も機能している点が怖ろしいところです。明治の廃仏毀釈は、近世以前の神仏習合の伝統を破壊し、渾然一体となった寺社の信仰対象を分離して、神社の祭神を『古事記』『書紀』に出てくるような古典的なものへ改めてゆきました。祭祀が体現する物語りも、漢籍や仏教の影響を受けたものから、記紀神話に依拠するものへ変更されていったのです。例えば東北の某神社では、形式的には明らかな棚機の祭りを、スサノヲによる大蛇退治だという解釈で斎行しています。このような歪曲が各地で維持されていることで、帝国日本の歴史が清算されずに残存してしまっているのです。