唐はなぜ、百済や高句麗に介入したのでしょう。朝貢していた国には政治へ介入しない、という考え方を中国はしていた、と本で読んだことがあります。

中華を統一した隋や唐にとって、朝鮮半島の経営は重大な関心事でした。高句麗は一応は中国王朝に冊封される立場でしたが、領土をめぐり緊張関係は常に持続しており、小さな衝突は続いていました。唐は、東突厥や高昌を滅ぼして北方・西方を平定したのち、631年に矛先を東方へ向け、隋/高句麗戦役における隋人戦死者の遺骨を収集、併せて高句麗の京観(戦勝記念塚)を破壊します。前王朝である隋の達成できなかったことを遂行する、という意思表示でしょう。また、高句麗百済が親唐的であった新羅へ、唐の抑止告諭も聞かず侵出を繰り返していたことも、大きな懸念材料でした。