庚午年籍の作成は、実際にはどのように行われたのでしょう?
非常に難しい問題です。改新政府の政治改革によって、これまで国造へ委任統治されていた各地域へ国・評・五十戸の行政機構が作られてゆき、国造は自らの支配領域を評として立てることで、その管理者である評司(のちの郡司)へ転換していった。天智朝に至るまでに、そうした中央集権化の試みは一定の進展を得ていましたが、やはり白村江の敗戦もあって、氏上の権威の拡張、部曲の一部承認など、豪族たちへの妥協も図らねばならなかった。庚午年籍の作成は、そうした微妙な政治的駆け引きのなかで、初めて実現しえたものでしょう。具体的には、臨時の中央派遣官であった国宰が統括し、諸国の国造、評司の協力を得て進められたと考えられます。それゆえにこそ、その作成過程において、種々の混乱や軋轢、不満の蓄積があったものでしょう。のちの神亀4年(727)には、筑紫諸国において、庚午年籍770巻に官印を押すことが命じられ、承和6(839)・10年には、京畿・諸国において、庚午年籍を写し進上することが眼命令されています。実在していたことは間違いないようですが、それがどこまで正確なものだったのか(本当に「氏姓の根本台帳」となすに足るものだったのか)、全列島的なものであったのかどうかは不明で、個人的にはやや疑わしいと考えています。